<あの日見た桜>

2005・7・30

 「あの日見た桜」は、かつてステンシルに掲載された藤野もやむの短編読み切り作品で、当時の読者の間では大いに話題になり、非常に高く評価されました。いまだにこの作品について語る人も多く、まさに心に残る短編となっています。

 エニックス時代に、ガンガンWINGで「まいんどりーむ」、「ナイトメア・チルドレン」というふたつの名作を連載していた藤野もやむさんですが、それと同時期に、少女マンガ誌であった「ステンシル」において、いくつかの優れた読み切り短編を残しました。それらの短編の中で最も心に残る名作となったのが、この「あの日見た桜」なのです。

 掲載号は、ステンシル2000年冬号と春号。この時期のステンシルは、創刊したばかりの季刊時代であり、さほど注目度は高くなかったのですが、この藤野さんの読み切り、とくにこの「あの日見た桜」だけは別格で、エニックス読者の間でかなりの話題を呼びました。当時の藤野さんは、ガンガンWINGでの「ナイトメア・チルドレン」の連載が高い人気を集めており、そのためにこちらのステンシルでの掲載にも注目が集まったのです。なお、「あの日見た桜」のコミックスには、同時期のステンシルに掲載された「てのひらの恋」「そんな、ふたり」、そしてこちらはガンガンWINGで掲載された「大正すいむ譚」の、3つの読み切り短編が併せて収録されています。

 さて、この作品は、藤野さんの作品の中では珍しく「原作もの」であり、有名な史実である義高と大姫の悲恋物語を描いたはかなくも悲しい短編となっています。


・高校の演劇から生まれた傑作。
 この義高(木曽義高)と大姫の物語は、大変有名な史実であり、知っている人も多いかとは思いますが、今一度ここで解説しておきましょう。

 義高は源義仲(木曽義仲)の長男で、対する大姫は源頼朝の長女です(頼朝と北条政子の間の第一子。ちなみに「大姫」は俗称で本名は不明)。義仲と頼朝は共に源氏の一族で、従兄弟の関係にあたりますが、この両者は父祖の代からの因縁もあって仲が悪い状態が続いていました。
 そこで、頼朝は義仲に嫡男の義高を渡せ、と言って来ます。自分の娘である大姫の許婚として迎えいれたいとの申し出でしたが、実のところこれは義高を人質として、義仲を牽制する試みでした。義仲はこの申し出を受け入れ、実の息子を鎌倉に差し出します。
 こうしていわば政略上の許婚となった義高と大姫ですが、その境遇にも関わらずこのふたりは大変仲がよかったのです。この時義高は11歳、大姫は6歳でしたが、ふたりはまるで兄妹のようであったと言われています。
 しかし、義高の父である義仲が、頼朝派遣の軍(義経)によって京都で討たれてしまい、事態は急変します。義仲亡き今、義高の人質としての存在価値はなくなり、それどころか、父の仇として頼朝を狙いかねない危険な存在となったのです。非情にも、頼朝は義高を討つ決意をします。妻の政子はその決定に抗議しますが受け入れられず、義高を逃がそうと試みますが、しかし最後には義高は頼朝の派遣した追っ手によって討たれてしまいます。
 そのことを聞いた大姫は嘆き悲しんで病床に伏し、義高への想いを貫いてわずか20歳の若さでこの世を去りました。

 この義高と大姫の物語は、原点は「志水物語」(「清水冠者物語」とも)という文献らしいのですが、藤野さんがこの物語を描くきっかけとなったのは、彼女の高校で開かれた演劇だと言及されています。この演劇にひどく感動した藤野さんが、演劇部の方々から資料を取り寄せて、それを再構成してコミック化したのが、この「あの日見た桜」なのです。当時はまだ藤野さんも高校生であり、そのためか作者の若々しさや初々しさが全面に出ており、悲恋ものながら同時にとても微笑ましい作品となっています。


・義高と大姫の描写が素晴らしい。
 このマンガの最大の魅力は、やはり義高と大姫、主役ふたりの魅力に尽きます。何と言っても義高の生きざま大姫のかわいらしさが素晴らしい。

 義高の、人質としての自分の境遇に不安を感じながらも、自分を慕ってくれる大姫を大切に扱う優しさ。そして、「木曽の男なら桜のように生きよ」という言葉に象徴される、確固たる力強い信念。頼朝に討たれる直前まで、その信念と、同時に大姫を気づかう優しさを失わなかったその生きざまは、多くの読者の胸を強く打つものでした。

 特に、「木曾の男なら 桜の様に生きよ」で始まる彼の言葉は、彼の生き様、信念そのものを如実に表しており、ひどく心に残る名言となっています。

 対する大姫の方は、幼くて義高の境遇も十分に理解できず、ただ無邪気に義高を慕う姿がとてもかわいらしかったのです。藤野さんの絵柄の魅力も加わって、とてとて走って義高に駆け寄る姿が最高に萌えます(笑)。藤野さんのキャラクターの中ではミリートやカカオに匹敵する、いやそれ以上に素晴らしい幼女萌えキャラクターなのです。

 はっきり言おう、(藤野さんの描く)大姫は最高であると!

 義高と大姫の物語はこれまでも何回となく語られ、多くの媒体で何度となく作品化されてきたようですが、この藤野もやむのマンガほどかわいらしい大姫は他にはいません。このマンガにおいて、義高と大姫は日本史史上最高の萌えカップルだと認定いたしました。もう断言いたします。


・頼朝と政子の微妙な心情、そして「桜」。
 主役ふたりだけの話に終始してしまいましたが、その周りを固める脇役である、頼朝と政子の描写も少ないながらよく描けてします。
 頼朝は、この物語の首謀者とも言える存在ですが、義高を非情に殺した極悪人としての顔だけでなく、むしろ迷いつつも決断を下した、その微妙な心理がよく表れています。そして妻の政子は政子で、義高を討つことには反対しつつも、夫の決断も理解してその間で揺れる心境がよく描かれています。ちょっと頼朝の絵の描写がいまいちで、壮年の男性が描けていない印象があるのが残念なところですが・・・

 そして、それ以上にこのマンガで見るべきは「桜」。義高の生きざまの象徴であるこの桜は、随所でその花を散らし、この物語のはかなさを一層際立たせています。最後の最後、義高が討たれたとき桜の花びらが一斉に散るシーンは、美しくも物悲しい終わりを告げる珠玉の名シーンであると言えます。


・ブレイドでのリメイク作品「ひとさきの花」との比較。
 さて、この藤野さんの描く義高と大姫の物語ですが、この作品の好評さを受ける形で、現在の藤野さんの移籍先であるマッグガーデンの「コミックブレイドZEBEL」において、「ひとさきの花」というタイトルでリメイク作品が描かれました。2006年に全3回のシリーズで連載され、2007年になってコミックスが出ています。この点で、原点の作品からはるかに時間を置いての創作ですが、こちらでも藤野さんのはかなげな作風は健在であり、新たな感動作となっています。では、この「ひとさきの花」と原点の「あの日見た桜」とを比較してみるとどうでしょうか。

 まず、技術的には明らかにリメイクの「ひとさきの花」に軍配が上がります。さすがに、これだけの時間を置いた後の作品では、作者の絵的な成長は顕著であり、絵の安定感では明らかな差異が見られます。「あの日見た桜」の時代の藤野さんは、まだ新人らしい未熟な点が残っており、背景の描写などに物足りなさを感じるところが見られます。さらには、絵柄だけでなく、演出力においても差は顕著であり、「ひとさきの花」の方が明らかに画面構成に力があります。
 ストーリーに関しては、どちらも素晴らしいですが、純粋に完成度を比較すれば、やはり「ひとさきの花」でしょうか。やはり後発の作品の方が、構成面の巧みさでは上で、キャラクターの心理描写でも深みがあります。総じて、作者の成長を強く感じられるリメイク作品だと言えます。

 しかし、技術力や完成度では「ひとさきの花」の方が上でも、個人的には「あの日見た桜」の方に強く惹かれるものを感じます。まず、「あの日見た桜」の絵柄は、技術面では劣るものの、その新人らしい若々しさ、初々しさが全面に出ており、とても微笑ましいのです。このかわいらしい絵柄は、今見ても決して劣ることはありません。
 そして、ストーリー面でも、「あの日見た桜」のシンプルでストレートなストーリーは、それはそれで直截的に心に残るものがあります。こちらでも、作者の若さが強く出ている内容で、それがこの作品では全面的にいい方向に働いており、作品の純粋さの魅力に結びついているように思えます。
 また、それに加えて、最後の「桜の散るシーン」があまりにも鮮烈だという理由もあります。たったひとつ、心に残るシーンがあることで、「あの日見た桜」の印象は、想像以上に非常に強いものとなっているのです。

 そしてもうひとつ、非常に重要な要素として、「あの日見た桜」の大姫の方がかわいいという点が挙げられます。はっきりいって、「あの日見た桜」の大姫はかわいすぎです。これだけはもう絶対的に譲れません(笑)。これだけでも「あの日見た桜」の方が上なのです。というか、これがもう最大の理由と言ってもいいでしょう。


・忘れてはならない藤野もやむ最高の短編。
 このマンガは、エニックスの雑誌の中でも最もマイナーだった「ステンシル」の掲載で、しかも前後編でわずか2カ月掲載の小品です。その意味で、あまりにも小さな作品という印象は拭えず、あまり多くの人には知られていないようです。そもそも、藤野もやむさん自体、エニックス(あるいはブレイド)の熱心な読者以外には、あまり知られていない作家だと思いますが、その中でも、このような短編作品となると、連載作品である「ナイトメア・チルドレン」や「はこぶね白書」以上に知名度は低いと思われます。

 しかし、このマンガは、本当に優れた作品です。藤野もやむの作品の中でも、おそらくは屈指の名作であり、連載作品と比べても決して劣ってはいません。季刊雑誌の前後編の短編でありながらも、当時の読者の間で大いに話題になり、今でも多くの読者の心に残っていることからも、それは分かります。今でも、「義高と大姫」と言えばこのマンガを真っ先に思い浮かべる人が、実にたくさんいるのです。
 また、この短編が掲載された2000年前期のエニックスは、まさに全盛時代であり、このマンガもその時代の良さを象徴する作品ともなっています。そのマンガが、今でも人の心に残っており、今になってリメイク作品が作られ、再び新しい感動を呼び起こしている。これは、今に残るエニックス全盛期の貴重な成果ではないでしょうか。

 このはかなくも美しく散りゆく桜の物語を、決して忘れたくはないものです。


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