<おすすめ同人誌紹介>

2009・5・2

 このところ購入するようになった同人誌が、かなり冊数がたまってきましたので、その中でもおすすめと言えるものを紹介したいと思います。今回は特にストーリーがいいと思うものをいくつか集めてみました。


<Bonjour, je suis au lait.>
 フランス語で妙なタイトルが付いていますが、本編とは一切関係ありません。
 椎名麻子さんの同人誌で、2006年の発行なので少し前の本になります。が、わたしが購入したのは2008年の夏コミで、奥付を見ると第3版になっています。
 表紙に浴衣の女の子が描かれていますが、このイメージどおり、田舎のひと夏のある出来事を情感たっぷりに繊細に描いた作品です。ただ、実に叙情的な作品ではあるのですが、扱うテーマがテーマだけに、ひどく重厚な社会性をも同時に帯びています。

 事故で両親と死別に、田舎の祖母のもとへと引き取られた私。祖母はとても厳しかったが、年をとっても背筋がぴんとして若く見える活発な人だった。家は古くから続く花火屋で、祖母は腕のいい花火職人だった。次々と花火を作り出す祖母の手はまるで魔法のようで、祖母の作った出来のいい花火は、学校の生徒や地域の 人みんなに喜ばれて遊ばれていた。
 しかし、そんな夏のある日、祖母に急に呼び出されたわたしは、売り物の花火を手渡され、これで遊ぶかい?と言われます。わたしはそれを喜び、微笑んで見守る祖母の前で無邪気に遊んだのですが、そのときにはなにも事情は分かっていなかったのです。

 しばらくして、花火の作業場が壊されているのに気づいたわたしは、事情をたずねると、ここはもう花火屋ではなくなる、自動車の部品を作る工場に変わる、といわれます。そこにきて初めて、あの花火はいらなくなったものだと気づいたわたしは、いたたまれなくなって祖母の元へと向かいます。そこでたまたま花火の材料が入った箱を見つけたわたしは、自分の部屋に持っていって自分で花火を作ろうとします。そこに祖母がやってきて、勝手に持ち出したことを怒られるかと思いきや、意外にも許してくれて、しかも縁側に出て花火をやろうと言われます。わたしの作った花火は、中々火がつかなかったりかと思えば大きな火が上がったりで、祖母のような繊細な花火にはならなかったが、それでも祖母はいい思い出が出来たと喜び、「もうこれで手作り花火も見れなくなる時代がきたんだねえ・・・」と涙を流します。それは、わたしが見た祖母の初めての涙でした。

 その十数年後、東京に出て大学に通っていたわたしは、祖母の訃報を聞くことになります。その時に見つかった祖母の小物入れの中には、素人が作ったようなできの悪い花火があって、それが大事に保管されていたことを知らされます。それが、あの時わたしが作った花火だったと知った私は、祖母のわたしへの愛、花火が消え去ることの寂しさ、そんな気持ちを改めて知ることになり、改めて泣いてしまうことになるのでした。

 以上のように、極めて繊細で叙情的な物語で、椎名さんの中性的で優しい雰囲気溢れる絵柄とあいまって、深い感動を呼び起こす実に美しい話になっています。そして、それと同時に、「国産の手作り花火がなくなってしまう」という大きな問題を扱っている点も見逃せません。物語の最後で、主人公のわたしは、あの時祖母が花火を廃業した後も、コストのかかる手作り国産花火は外国製品に押されて減り続け、そしてついに1999年には日本から消えてしまったことを知ることになります。さらには、作者の書いた後書き内で、その後この事態を憂えた業界関係者や愛好家の努力で、ごく少量ではあるが国産花火が復活したそうで、この物語の祖母のような熟練した職人がコスト無視で作っていると記述されています。
 わたしとしては、こういった職人の技術と、それから作り出される商品というものはとても大事なものだと思うのですが、それがコスト重視の製品に押されて成り立たなくなってしまう。こういった話は数多く見られます。そもそも、外国から安い花火を輸入してまで花火をやることにどれだけの意義があるのかわたしには分からないのですが、これが今の世の社会経済システムなのでしょうか。
 花火屋がなくなって自動車の部品を作る工場に変わる、という箇所も痛烈な風刺、社会批判になっていると思います。技術と伝統のある職人の仕事が成立しなくなり、代わって日本の基幹産業で、オートメーション化された大量生産の代名詞である、自動車の部品工場に代わってしまう。これは大いなる皮肉ですが、あるいは実際に本当にこういうことがあって、それを作品に取り入れたのかもしれません。


 この作品を手がけた椎名麻子さんのサークルは、実はものすごい人気サークルで、わたしが夏コミでスペースを訪れた時もすでに新刊はなく、既刊だったこの本のみを辛くも購入できたのですが、それがあまりにも貴重な一冊となりました。今からだとちょっと前の本になってしまうのですが、それでもこれはいまだ私の持つ同人誌の中でも最高の本のひとつになっています。

 それと、もう一度書きますが、この本のタイトルがすごく妙なのは、タイトルに迷った末に拾った画像の面白い文言を、フランス語なら分からないだろうと変えてそのまま決定してしまったとのこと。本編とは何の関係もなくそれどころかまったく意味のない文言なので、無理に翻訳してはいけません(笑)。


<リリア>
 かゆねにうさんと千歳良太さんの合同誌。合同誌といっても、単に二人で執筆している本というだけでなく、二つの物語を原作と作画を入れ替えて担当するという凝った創作本になっています。タイトルになっている「リリア」は、両方の作品に出てくるキャラクターの名前ですが、同一人物というわけではないようです。
 ふたつの作品に共通したテーマは、「テレパシー」だそうですが、より分かりやすくいえば「人と人はいかに分かり合えるか」ということだと思います。どちらもひどくシビアで重苦しい話で、読者の心に大きな余韻を残します。

 「遠い声」(原作・千歳良太、作画・かゆねにう)は、SF的な設定を強く感じる物語です。「パス」と呼ばれる技術が普及した世界。これは、パスと言う装置を接続した(「パスを通す」という)者同士で、テレパシーのように意志の伝達が可能になるという技術で、これを使えば会話すら必要でなくなるとのこと。「物理的数学的に完璧なコミュニケーションが取れる!」という触れ込みで大いに普及しています。

 物語の主人公は、そのパスを通した仲のよい夫婦。パスを通すことで相手のことをより深く知ることができ、かつてよりもさらに親密な仲となって暮らしています。しかし、そんな満ち足りた生活を送っていたはずの妻の心に、時を追うごとに不安が募るようになります。相手のことが分かっているはずなのに、なぜこんなに不安になるのか。彼女は悩みます。
 そんな時、夫がパスに代わるさらなるコミュニケーションツールを導入しようと言ってきます。クローサーと呼ばれるそれは、両者の人格を統合した仮想的な人間を作り出し、それに双方が精神を接続することで、本当の意味で「ひとつ」になれるという新技術だと言います。それを聞いた妻は、恐ろしく激しい不安と恐怖を感じ、その申し出を完全に拒絶します。なぜ彼女はそこまでの恐ろしさを感じて拒絶したのか?

 ここで、物語冒頭で妻が発したモノローグが再び登場します。「わたしたちは欠けたピースである。自分ひとりでは完成していない不良品である。それを完成させるのは、誰かの存在だったり愛だったりする」と。では、パスやクローサーを通して強固な結びつきを得た夫婦ならば、ピースは完成するのではないか?
 実は、そうではないのです。少なくとも、この妻はそうは思いませんでした。パスを通すことで、元から欠けていたピースがさらに形を変え、それがどんどん歪な形になっていき、自分自身が分からなくなる。そうしてピースが完全に合ってひとつになったからといって、それで幸せになれるとは限らない。むしろ、欠損を抱えつつ、それが(自分の自然な成長に合わせて)形を変えていくからこそ、幸せを模索することが出来る。この思いを切々と訴える妻の言葉は、感情がほとばしった強い強い訴えで、それを聞いた夫は、ようやく妻の名前(リリア)を「自分の言葉で」呼ぶことになります。

 わたしは、この作品を読んで、ある小説(ヴァーリイの「残像」)にある盲人たちの国(共同体)の話を思い出しました。目も耳も使えない彼らの伝達手段は、体と体の接触で行うボディ・ランゲージである。字や声だけでは人の本心はそう伝わるものではないが、体を密着させて自分の思いを伝達するボディ・ランゲージでは、熟練すると体の状態、動きから相手の感情を的確に判断できるようになってくる。ひとりひとりの感情は瞬く間にみなに伝わり、その反応がすぐに返ってくる。だから憎悪や闘争もここではありえない。あたかもみながひとつの生命体であるがごとく彼らの心はつながっている。外からやってきた主人公は、このようなあり方を非常に恐れ、そこから逃げ出すことになります。

 これも一種のSF小説で、おそらくはアンチ・ユートピア小説のひとつだと思いますが、この「リリア」は、夫婦同士という近しい関係において、これにほど近いテーマを徹底的に追求し、実際につながりあった者の感情を切々と表現した優れた作品になっていると思います。


 もうひとつの作品「触覚」(原作・かゆねにう、作画・千歳良太)も、負けず劣らずの良作です。妻に先立たれた大学教授の夫が主人公で、子供が出来なかった彼らは女の子の養子(リリア)を取るものの、その後すぐに最愛の妻は死んでしまい、そのショックから立ち直れないで日々を絶望して過ごしています。一緒に住むリリアと家政婦のイノのふたりともうまくいかず、ギクシャクした関係で、家族の中心の妻がいなくなったことで、「偽者の家族」を演じている心境に陥っています。

 イノは、そんな主人公を叱り付けて立ち直らせようとしますがうまくいかず、リリアも懸命にお父さんと交流を図ろうとしますが、それも拒絶してしまう。このときに主人公が発するのが、大学での講義で語っている「討議の問題」で、議論が最終的に合意に至れるという前提は実は成り立たない。無限背進するだけでたどり着かない。だからひととひととが完全に分かり合うことは不可能だと言います。議論が最終的に合意に至るとして、その合意を取るために「合意の合意」が必要で、「合意の合意」には「合意の合意の合意」が必要で、「合意の合意の合意」には「合意の合意の合意の合意」が必要で、完全な合意に至る前に無限背進してしまい、相互理解には絶対に至らないということなのですが、それを理解した上で、イノは「どんなに気持ちを込めたとしても、受け取る側にその気がなければ想いは伝わらない」と言い、感じてくれればいい。本当は分からなくてもいい。相手を思いやることができるなら、わたしたちはわかりあえる・・・・・・と訴えます。

 それと同時に、リリアもお父さんに対して好きだという思いを全力で伝え、これでようやく思い直した主人公は、今までの行為を反省して謝り、ようやく3人で家族らしくうまくやっていけるようになるのです。


 このふたつの物語は、双方で大きく視点が異なりますが、どちらも人と人との相互理解というテーマに真剣に取り組んだ、極めて真面目で重厚な作品となっています。これ以前も、執筆者のひとりであるかゆねさんの作品には触れていたのですが、それとは大きく異なるタイプの作品で、作者の新たな一面を知ることが出来て非常に幸運でした。


<それいけぷちな!>
 上記の2つの本が、どちらもえらく重くシビアな話だったので、今度は楽しくコミカルに読める本を紹介します。この「それいけぷちな!」は、楓菜あきのさんの本で、自サイト(自作品)の看板娘「ぷちな」を主人公にした楽しいお話です。ぷちなは、紹介文では「なぞの小人」となっていて、人間にない2本の角を持っている「鬼」のような一族?のようです。

 主人公の女の子(橙香)が、散歩していたときに公園で猫と喧嘩している謎の生き物を見かけます。その生き物は、猫と張りあってあっさり負けてしまい(笑)、転んで気絶してしまったのを放っておくことができず、家に連れて帰って介抱することになります。
 その生き物は、同じく角のある一族の里から逃げ出した子で、2本の角、しかもうち1本は不幸をもたらす黒い角を持つ悪鬼として、仲間たちからさげすまれていました。その境遇に耐えられなくなったために、人間の世界に逃げ出してきたのです。女の子は、その子を優しく扱い、おいしいぷりんを食べさせると、最初は警戒していたその子も次第に打ち解け、「ぷちな」という名前もその時に教えてくれます。元の里では悪鬼としてまともに名前で呼んでくれなかったので、自分の名前で呼んでくれる橙香にぷちなは感激します。

 しかし、その翌日になって、里からぷちまるという子供が、ぷちなを連れ戻しにやってきます。ぷちなを不幸の子として扱い、強引に連れ戻そうとするぷちまるを見て橙香は怒り、そんな扱いをするならうちで預かるといってぷちなをかばいます。ぷちなも、怒りのあまり角の力で暴走してしまいますが、橙香の食べさせたぷりんのおかげでおさまり、「角なんて関係ない」という橙香の一言に感激し、完全に打ち解けて一緒に暮らすことになります。おいかけてきたぷちまるも、初めて食べたぷりんのおいしさに惹かれてここで居候することになり(笑)、これでめでたしめでたしのほのぼのしたエンディングを迎えます。

 このように、基本的には笑える箇所も多いコミカルなストーリーなのですが、同時に、差別されてきた子が人の優しさに触れて立ち直るという、中々に考えさせるところもあるエピソードになっています。例えば、橙香が留守にしている間に、ぷちなが部屋においてあったある本を読んで怒り出し、暴れまくるシーンがあります。その本とは、昔話の「ももたろう」でした。ぷちなは、鬼と自分を重ねてしまったのです。鬼は何も悪くないのにももたろうは鬼を倒してヒーローになる。鬼の気持ちは描かれてない。見方によってはとても残酷な話・・・だと橙香は気づきました。これなども、非常に面白く改めて考えさせる見方だと思いますね。

 また、この本は、マンガとしてよく描けているのもポイントです。マンガの構成がよく出来ていて、絵の描き方もこなれています。絵柄はまだ若干荒い部分が残っていますが、マンガの絵としてうまいのであまり気になりません。今回紹介した4つの本の中では、マンガとして最もよく出来た作品だと思います。楓菜さんは、普段はイラストを中心に活動されており、このマンガも久しぶりの作品らしいですが、それでこれだけ描けるなら十分だと思いました。
 この本は、人に頼んでイベントで入手してもらったのですが、どうも書店での委託はなくイベントでの販売のみのようで、その点で実に幸運でした。逆に言えば、イベントでしかこの本を入手できないのはちょっと残念ですね。


<月とカエル>
 最後にひとつファンタジー作品を紹介します。それも童話的なファンタジーで、ほのぼのと心が洗われる実ににいい話です。うさみみきさんの本ですが、彼女の作品にはこのようなイメージのファンタジーが多い。

 ある街に最近越してきたユーリカという女の子と、彼女と親しくなったニエナという男の子の話で、病気のお母さんを抱えて日々頑張って働いているユーリカが、日ごろよくしてくれるニエナに感謝の気持ちを伝えようとするストーリーです。
 普段の感謝の気持ちを伝えようと、「星が降る」と言われる夜にニエナを呼んで待ち合わせをすることになったユーリカですが、普段働いているパン屋での仕事が都合で遅くなり、急いで待ち合わせ場所に駆けつけたものの、肝心の星が降る気配がありません。実は、星たちがどういうわけかまだ寝ていたのです。それに気づいたお月様は、相棒であるカエルのケロ子に命じて星たちを起こしてくるように行かせます。ケロ子は勇んで出かけてたちまち星を起こしていきます。そしてぽっ、ぽっと星が降り始め、見る間にあたり一面に星の雨。今日は流星雨の夜だったのです。
 そうして無事に流星の夜に会えたユーリカとニエナですが、引っ込み思案なユーリカは、中々ニエナに感謝の言葉を伝えることが出来ません。そこでケロ子が空から降りてきて、自分の力でほんの少しの勇気をユーリカに与えると、ユーリカはついに思い切ってニエナに普段の思いのすべてを打ち明けます。それにニエナの方も快く応え、ここで本当に幸せな瞬間を迎えるのです。


 この本もまた、人に頼んでイベントで購入してもらったのですが、無事入手して宿泊先のホテルで初めてこの本を読んだ時には、本気で感動してしまいました。ストーリーはもちろん、空に住むお月様と相棒のカエル、降り注ぐ星の雨などといった設定が、いかにも童話的なファンタジーの魅力全開で、その叙情的な雰囲気が実に素晴らしい。

 それともうひとつ、いわゆるストレートな「恋愛もの」にはなっていないというのもポイントかなと思います。ユーリカとニエナは、非常に親密な仲だと表現されているのですが、恋愛感情の表現はほんのりと見られる程度で、純粋に信頼のおける仲、互いに感謝の心を伝え合うような関係がより強く描かれています。それが実にほほえましく、純粋な感動を呼ぶのだと思います。この手の創作ファンタジーには、このような関係性を持つキャラクター描写が多く見られるような気がするのですが、それはこの同人界隈の創作におけるひとつの特徴かもしれません。

 ちなみに、この本はもう完売して入手が不可能になっているようですが、マンガは作者さんのサイトでウェブコミックとして公開されています。


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