<印象に残る言葉・名言集> ──「聖戦記エルナサーガ」──

2007・7・20

 「聖戦記エルナサーガ」は、さすが名作と呼ばれるだけあって、印象に残る言葉が多数含まれています。作者の国語力がしっかりしていて、言葉遣い、文法が全く乱れていないのも、印象に残る言葉が生まれやすい理由でしょう。ここでは、そんな作品の中から、特に印象に残る言葉を採り上げてみます。この中には、いわゆる「名言」と呼ばれるような、後々まで心に残るような至言も含まれますが、一方でそれほどでもないが、ちょっとだけ印象に残る程度の発言の方も重視してみました。


・「彼女は両方と答えるのだろう」
 この「聖戦記エルナサーガ」の主人公はアーサトゥアルの姫エルナで、そしてそのパートナーとしてエルナ同様に最重要人物としてアンサズの王子シャールヴィがいます。このふたりを軸にして物語は回るのですが、しかしあとふたりほど、非常に重要な人物がいます。そのひとりが、エルナの兄にして「光の王」と呼ばれる王、エイリークです。

 このエイリーク、主人公二人組に比べればさすがに登場頻度は少ないのですが、それでも要所要所で重要な役どころを示し、とりわけ終盤では登場度数も増え、最後の最後では非常に重要なエピソードも設けられています。そして、彼の話す言葉には、主人公たち以上に名言も多いように思えます。
 上記の言葉は、物語でも序盤で発せられたもので、妹であるエルナのことを語った言葉です。厳密には、この言葉の前に次の一節が入ります。

 「自分や誰かを守るために相手を殺してよいものか どちらが生き残るべきか
 たったひとりの魔道士と大勢の民とどちらが救われるべきか

 彼女は両方と答えるのだろう。」(「そして悩むんだ」・・・と後に続く)

 これは、主人公エルナの行動原理を、端的にこれ以上ないほど分かりやすく説明したもので、同時に、このマンガのテーマの一端にも触れています。それが、マンガの序盤のうちからはっきりと提示されたおかげで、作品に一本筋が通る形となりました。その点でも非常に重要です。

 これは、前に来る一節の一行目と二行目で、それぞれ異なるテーマを提示しているため、分けて考える必要があるかもしれません。
 まず、一行目の「自分や誰かを守るために相手を殺してよいものか どちらが生き残るべきか(→彼女は両方と答えるのだろう)」のくだり。これは、そもそもこのような問いが、マンガで発せられること自体が、非常に珍しいです。
 大体、どんなマンガでも(あるいはマンガ以外の作品でも)、「自分や誰かを守るために相手を殺してよいか」とか、そんなことはあまり考えません。まず、「自分や仲間や大切な人を守る」ことが最優先で、そんなことを思いつく前に相手を殺しているケースが多い。エルナサーガのようなファンタジーものならば、とりわけゲーム、RPG的なファンタジーものならば、なおさらそんな話が多いですね。いや、そういった物語でなく、広く一般的に見ても、こういうことを考える人はひどく少ないのではないでしょうか。「戦争で人を殺して生き残るくらいなら、自分が殺された方がよい」と考える人がどれだけいるか(本来はこちらの思想の方が正しいはずなんですが)。そのような貴重な問いかけを、物語の序盤でいきなり提示したことは大きい。
 この「聖戦記エルナサーガ」以降、エニックスではファンタジーもの、RPGもののコミックが多数登場しますが、そのほとんどが、「大切な人たちを守る、そのための力をふるう」というテーマに終始しているのが残念なところです。まあ、原作のゲーム自体もそうなのかもしれません。

 そして、二行目の「たったひとりの魔道士と大勢の民とどちらが救われるべきか(→彼女は両方と答えるのだろう)」のくだり。こちらの方は、実は他の作品でも同じような問いかけが多数見られます。むしろ、非常にありがちなテーマかもしれません。「世界を救うために仲間を犠牲にしなければならない」RPGとかいくらでもありますし(笑)。しかし、この「エルナサーガ」の場合、それに対する「彼女は両方と答えるのだろう」という回答の方が、非常に希少です。既存の物語だと、あえて少数を犠牲にするという忌まわしい合理主義で大勢を救ってしまうか、あるいはそれに抗する形で大切な人をかたくなに守ろうとするか、その二者択一なのですが、この作品のように「両方」と答える話は非常に珍しい。極めて斬新で、かつ真理を突いた言葉であると言えるでしょう。


・「エルナ・・・お前の夢はなんだ 理想はなんだった。行こうぜ・・・そこによ。」
 エルナの最強のパートナーであるシャールヴィは、常に力強い言葉でエルナを支えるのですが、その最たるものがこれでしょうか。これは、最終決戦の直前、魔風が吹きすさぶ魔境で、魔風に傷つきながらもなおも力強い意志を見せる場面です。

 理想を提示しながら、その道のあまりのけわしさに、志半ばで方針を転換してしまうもの、あるいは、最初から理想を実現不可として無視するものが多い中、このふたりの意志の強さは、作中一貫して変わりません。とりわけ、シャールヴィは、常人をはるかにしのぐ圧倒的な膂力と魔法力を持っており、かつ一方で冷静な知性までも併せ持つまさに「英雄」で、そんな彼の言葉ならば、本当にいかなることでも実現してしまうかもしれないという、強烈な力強さと安心感があります。このような、「理想を目指す弱きものを強力に守るパートナー」という組み合わせは、物語ではよく見られるパターンかもしれませんが、このマンガのそれは、両者の意志と力にひどく強固なものがあり、最後までそれがほとんど揺らぐことがないのが、名作たるゆえんでしょう。


・「そうか 偉くなるってのは こういうことか──」
 これは別に名言というわけではないと思いますが、ある意味では名言かもしれません。
 一介の農民に過ぎなかったビッキという青年が、騎士の位と封土を求めて狂戦士となり、強大な竜に乗ってエルナを捕らえに(もしくは殺しに)やってきます。最初のうちは慣れない戦いにおっかなびっくりで、強力すぎる竜も扱いかねていたビッキだったのですが、自分と自分の乗る竜の強大な力を知り、人々がみな自分を畏れて逃げ惑っているのを見て、一気に自信満々となってこのセリフを吐き、以後は暴虐の限りを尽くすことになんとも思わなくなります。

 このセリフでの「偉くなる」という言葉が、「優れた人間になる」「人徳者になる」という意味ではないことは明白でしょう。ここでの「偉くなる」は、「権力を得る」「地位を得る」という意味での「偉くなる」という言葉に他なりません。偉くなるということは、すなわち他人を自分の意思のままに扱えるようになること。ビッキは、そのことをまさに身を持って知ってしまい、そして一気にその快感に酔いしれてしまうのです。これは、今までそんな力とはまるで縁の無かった一介の庶民が、何かのきっかけで強大な力を手にした途端、人が変わったかのように横暴の限りを尽くすという、ありふれた人間の所業を、これ以上ないほど端的に表現しています。

 わたしは、権力というものが、何も一部の高みにある人物(政治家とか大企業のトップとか)だけのものとは思っていません。他人を自分の意思のままに扱えることが権力ならば、それは機会さえあれば誰でも手に入れることができるものなのです。これは、そんな権力の持つ普遍性を露骨に表現した言葉であり、ある意味では、これ以上ないほど人間の本質を表した「名言」と言えます。


・「協力して拡大する魔境への対策をこそするべきなのに」
 これも名言でもなんでもない、単なる会話の言葉でしかないのですが、それでも読むたびにぎくっとさせられるものがあります。
 この前にもうひとつの言葉があり、全文を表示すれば、

 「国同士で争いなどしている時ではない 協力して拡大する魔境への対策をこそするべきなのに」

となります。これは、辺境からの視察から帰ってきた修道士アースムンドが、世界の辺境で魔境(人が住めない死の領域)が拡大していることを、仲間の修道士に告げる言葉なのですが、これが、まさに現実の環境問題と状況が酷似しているため、そのあまりにも現実的な主張の前に、思わず作品を読む手を止めずにはおられないのです。
 現代において、世界規模の最大の国際問題となっている環境破壊、中でも地球温暖化の問題は、あまりにも深刻な問題であるにもかかわらず、現実には遅遅として対策は進まず、戦争や軍備の拡張も終わる気配がありません。そのような現実の状況を鑑みれば、このアースムンドの言葉は、あまりにも現実そのままに思えるもので、この作品が単なるファンタジー物語であるにもかかわらず、このセリフを読むたびに思わず手を止めざるを得ないわけです。いや、むしろ、これが現実とは遠い世界の物語であるがゆえに、逆に現実に直結する言葉が響いてしまうのかもしれません。

 さて、この言葉を発した修道士であるアースムンドは、さすがに年季の入った修道僧だけあって、その言葉には他の若いキャラクターにはない落ち着きと含蓄があり、なにげに心に残るセリフが多いような気がします。若いエルナやシャールヴィ、エイリークとはまた違った趣が感じられます。


・「すべてのものに答えがあるわけではない あるのは越える道だけだ」
 これは、道に迷いさまようエルナの前に現れた古(いにしえ)の勇者の幻が、エルナに道を指し示すべく発した言葉です。何か霊的な導きがあったのか、それとも単なるエルナの妄想だったのか、それは定かではありませんが、いずれにせよこの言葉でエルナは立ち直り、再度自らの道を進むことになります。

 そして、これは、この「聖戦記エルナサーガ」の中でも最大の名言ではないかと思われます。
 ここまで全力で奔走してきたエルナですが、いかんせん個人の力では戦争を止めることはかなわず、さりとて魔境に分け入って元凶である魔獣を倒そうという試みもひとりではとてもできず、しかも人間の醜い一面をまたも見ることにもなり、ついにはあらゆる方策を失い完全に途方にくれてしまい、ふと現れた霧の中をさまようことになります。そんな時に現れた古の勇者の言葉は、決してエルナによき方策を与えるようなものではなく、まったく逆に「すべてのものに答えがあるわけではない(=どうにもならないこともある)」という突き放したとも取れる言葉でした。確かに、この世の中の問題は、すべて明確な解決策が見つかるわけではなく、むしろ、どうやってもうまくは出来ないことのほうが、圧倒的に多いものなのです。この勇者の言葉は、誰もが納得してしまう力を持っています。

 しかし、同時に「あるのは越える道だけだ」と続け、どんなに解決不能な困難な問題がたちふさがろうとも、それでも絶えず努力を続けるしかないという、人としてあるべき生き方を提示します。この言葉に強く心押されたエルナは、次の瞬間には霧の中を脱出し、まぶしい朝の光の中で次の町を見つけ、気を持ち直して再び困難な旅を続けようとするのです。

 そして、これこそが、「エルナサーガ」の発する最大の至言であり、本当に後世に語り継ぐべき言葉ではないでしょうか。わたし自身も、これほど感銘を受けた言葉は多くありません。困難な問題に直面するたび、今でもこの言葉を思い出すことがあるのです。


・「つらい思いをされたな・・・もう 休まれよ」
 聖書(新約聖書)に「復讐するは我にあり」という有名な言葉があります。これは、神が発している言葉で、「みだりに復讐してはならない。復讐することは神であるわたしにまかせよ。悪に対して悪で報いてはならない。」というのが本来の意味です。しかし、実際にはそれとはまったく逆とも取れる意味で使われていることも多いのが、少々残念なところです。本来は、復讐の心にとらわれた者に対して、「もう復讐の心にとらわれることはない。神であるわたしが代わってそれを受けよう。あなたはもう休みなさい」という、大いなる神の慈悲を説いた言葉なのですが・・・。

 さて、この「もう休まれよ」という言葉も、この「復讐するは〜」とほぼ同じ意味を帯びた言葉です。これは、光の王であるエイリークが、すべてのものに対する復讐という妄執にとらわれた大魔道士ヴァーリに対して、とどめを刺すときに発した言葉です。この言葉の前に、「この王冠をあなたに返そう」という言葉があり、それと共に本来彼に与えられるべきだった王冠をヴァーリに返還し、そしてこの言葉とともに短剣を突き刺してとどめを刺します。いや、実はこの言葉の方こそが、ヴァーリを倒す唯一の力になったことは間違いありません。同時に短剣を刺してはいますが、ヴァーリはそもそも不死身の化け物と化しており、短剣などで死ぬような者ではないのです。この言葉こそが、ヴァーリの妄執を癒し、復讐の心を溶かし、不死身の体を打ち倒す力となったのです。ヴァーリは、どんな強大な魔法でも倒すことの出来ない恐るべき化け物と成り果てていましたが、そんな彼を打ち倒すことができたのは、いかなる暴力でもない、ただひとつの慈悲の言葉でした。


・「もう何も生まれなくていいと・・・何も無くなってしまえばいいと・・・思った もう・・・ 愛も憎しみも全て 哀し・・・ ・・・・・・」
 そして、そのエイリークに倒されたヴァーリが、最後の最終決戦の時に復活し、エルナとシャールヴィの前に立ちはだかります。そして今度はシャールヴィの手によって倒されることになりますが、その時に最後の最後で発した断末魔の言葉がこれです。

 ヴァーリは、エルナ・シャールヴィ・エイリークと並ぶこの作品の最後の主役で、ひどく冷酷な悪人として最後まで彼らの前に立ちはだかりますが、そんな彼も、このような感情的(感傷的)な言葉を発することがしばしあります。実は、彼は自分の中にある妄執(復讐の心)をすべての原点として行動しており、一見して常に合理的で冷酷な行動を取り続けるように見えて、実際には感情が表に出た激しい行動を取ることも珍しくありません。そのため、時として矛盾する行動すらも散見されるのですが、それもこのような感情的な心に突き動かされてのことと考えれば納得できます。

 そして、このような、「すべてのものを滅ぼす」というような目的は、RPGでラスボスの大魔王あたりがよく言葉にしますが、なぜそんな意味不明な行動を取るのか、まるで納得いかないことも少なくありません(笑)。しかし、この物語のヴァーリの言葉に関しては、そのような心に至るようになったひどい過去の出来事と、それから来る妄執の凄まじさが、作品全般を通じて詳細に語られているため、大いに共感することができるのです。徹底的に冷酷な悪人として描かれていたヴァーリですが、このような末路に至った妄執の心、そのはかなさが全面に出たこの言葉は、ひどく哀しく、読者の心に強く残ります。「愛も憎しみも 哀しみもすべて・・・無くなってしまえばいいと・・・」。


・「そののち 新しい大地に再び人が満ちるまで ながく平和が続いたとのことである」
 これは、この物語のエンディングの一節で、誰の言葉でもない説明のためのナレーションです。どこまでも華やかで美しいエンディングで、ナレーションも晴れやかにその後の経緯を謳っているのですが、その中で、唯一読者の心に不穏な影を残すのが、まさにこの一節なのです。

 エルナとシャールヴィの勇気ある行動で、ついに世界に平和が訪れました。しかし、その平和は、どこまでも晴れやかに見えて、真の平和ではないのです。実は、根本的な解決にはなっておらず、一時的にエルナの行動で戦争の原因が取り除かれただけであって、決して永久に続く平和ではなかった。そのことが、この一節の「新しい大地に再び人が満ちるまで」という言葉に凝縮されています。実は、このエンディングの平和は、「再び人が満ちるまで」という、時間制限付きの平和であって、恒久の平和ではないことが、さりげなくここで語られています。そのため、どこまでも晴れやかなエンディングの中で、この一節だけが読者に暗い影を落とすのです。

 これがオーソドックスなファンタジー物語だと、どこまでも明るいエンディングで終わることが多いのですが、「聖戦記エルナサーガ」は、そこに一抹の後に引きずるような要素を残していることが、物語にさらなる深みを与えています。そういえば、「ドラクエ3」のラスボスの言葉にも、同じような不穏な一節が含まれていたような気がしますが、これも同じような効果がありました。

 そして、「新しい大地に再び人が満ちた」後の話は、続編である「聖戦記エルナサーガII」で語られることになります。


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