<現代RPG批判(3)戦闘以外のシステム>

2001・7・3
全面的に改訂2013・4・6

 さて、前章では日本のRPGにおいて大きなウエイトを占める戦闘システムについて論じてきました。そこで、次は「戦闘以外のシステム」の在り方について論じようと思います。
 しかし、実は、日本のRPGは、戦闘以外のシステムがほとんどありません。ほぼ戦闘だけにシステムが集約されるゲームがほとんどです。ゲームとしてやるべき箇所が、本当に戦闘しかないのです、日本のコンピュータRPGは、なぜ戦闘以外の部分において、ほとんどゲーム性が見られないのか。

 例えば、ダンジョンの攻略ひとつとってもそうです。そもそも、ダンジョンというのは大抵は敵の本拠地、そうでなくともモンスターの巣窟ですから、そこへ何の準備もなしに踏み込むことは大変危険です。事前に盗賊あたりに下調べさせるか、あるいは人々からできる限りの情報を集め、できればダンジョンのマップを手に入れたいところです。そしていざダンジョンに潜入となれば、そこは危険に満ちた敵の本拠地・巣窟ですから、できる限り慎重に行動しなければいけません。マップを頼りに危険の少ないルートを選び、できれば余計な戦闘は避けるべきでしょう。トラップや仕掛けにも注意が必要です。トラップというのは侵入者を排除するためにあるのですから、それに引っかかれば死ぬか、あるいは死なないまでも致命的な被害を受けることは間違いありません。細心の注意が必要です。ここでも盗賊の活躍に期待しなければなりません。そしてダンジョンを慎重に進んでいざ目的を達したら、あとはすみやかに帰還するだけです。

 ところが、日本のRPGでは、このあたりの戦略がまったくゲーム化されていません。日本のRPGにおけるダンジョンの構造、あれは一体何なのか? 適当にダンジョン全体を回って宝箱を回収して、あとは一番奥にいるボスを倒すのみ。トラップや仕掛けといっても、なんだか小学生でも解けそうな、あまりに幼稚なパズルじみた仕掛けがあるだけです。そもそもダンジョン全体を回って宝箱を回収するという構造自体に、何も戦略性が感じられないのではないか。それは宝箱回収という単なる作業でしょう。
 ダンジョンの構造だけではありません。全体的に戦闘以外で考えることがまるでないのが、日本のコンピュータRPGです。RPGにおいて戦闘以外で死ぬことがどれだけあるでしょうか? あきらかに戦闘のみにゲーム性が集約されています。


 ここで改めて確認しますが、RPGというものは、本来戦闘ゲームではありません。ここでまたRPGの元祖であるD&Dに登場してもらいますが、このD&Dというゲーム、もともとがウォーシミュレーションゲームだったこともあって戦闘中心のルール構成で、確かに最初は戦闘以外のルールはありませんでした。ではD&Dは戦闘のみを楽しむゲームなのかというと、必ずしもそうではないのです。なぜかというと、D&Dではとにかく初期のプレイヤーが弱く、死にやすい(死にやすかった)のです。そのため、とにかく戦闘を避けるように行動するとか、いざ戦闘に入るにしても絡め手から攻めるとか、そういった戦闘以外での立ち回りが非常に重要なのです。また、D&Dのルールでは、ダンジョンから宝を持ち帰るだけで経験点がもらえるため、必ずしも戦闘を行う必要もありません。(実はこの「ゲームを進めるために必ずしも戦闘する必要がない」というのはゲーム性において非常に重要です。)

 さて、このように、D&Dにおいては、戦闘以外での立ち回り・戦略といったものが重要なのですが、反面その戦闘以外の部分を判定するルールが無いという欠点もありました。そのため戦闘以外の部分も重要でありながら、肝心の判定はほぼマスター(進行役)の裁量にまかせざるを得ないという問題があったわけです。
 そこで、D&D以後に登場したRPGの中には、戦闘以外の判定ルールを最初から備えた作品が生まれてきます。そのもっとも初期の作品が「トンネルズ&トロールズ(T&T)」あたりで、この作品は「セービングロール」という、あらゆる行為判定をキャラクターの能力値に基づくひとつのシステム体系の中で処理するシステムを備えています。そしてこれ以後のRPGでも、戦闘以外の行為判定(一般行為判定)を行うシステムを多くの作品で備えるようになります。
 このように、RPG(テーブルトークRPG)では、戦闘以外の部分にもちゃんと行為判定のルールが存在し、すなわち戦闘以外でもゲーム性が存在するわけです。というか、そもそも戦闘を特別扱いするのがおかしいのであって、戦闘はあくまでゲームの一部、実際にはゲーム全体に等しくゲーム性が存在していると考えるべきでしょう。

 ところが、日本のコンピュータRPGの多くは、戦闘以外でゲーム性がまるで感じられません。ゲーム雑誌やネット上でのRPGの紹介記事やレビュー記事を見ても「ストーリーは・・・、グラフィックは・・・、そして戦闘システムは・・・」というような書き方をされています。あきらかにシステム=戦闘という書き方です。戦闘以外にシステムと呼べるものはないというのか?
 まあ、確かに戦闘以外にシステムが無いのです。明らかに戦闘にシステムが集中していて、戦闘以外のゲーム要素がほとんどない。何度でも言いますが、日本のRPGで戦闘以外で死ぬことはほとんどありません。


 さて、ここからが本題です。このように、戦闘のみにゲーム性が集中してしまったがために、日本のコンピュータRPGは、本来RPGが持っていたはずの楽しさが大きく損なわれました。一言で言えば、「戦闘ゲーム」になってしまったのです。イベントを見てストーリーを進める以外では、ただひたすら戦闘を繰り返すだけ。戦闘の合間にストーリーイベントを見て、あとはまた戦闘。ファンタジーRPGだと主人公たちは大抵「冒険者」なんですが、ゲーム的には「冒険」してなくて、むしろ「戦闘者」なのです。
 実際のところ、日本のRPGでは、戦闘以外にやることが非常に乏しい。そもそも完全に一本道なストーリー展開で自由度が少なく、戦闘以外ではゲーム性があるどころか自由な行動すらできないことも多い。戦闘以外ではただストーリーを進めてイベントを見るだけ。もう完全に戦闘自体が「ゲーム内ゲーム」と化しているわけです。一本道で自由度のないゲーム進行の中で、唯一戦闘しかプレイヤーの意志の介入できる場がない。そして、そんな戦闘が、ストーリーを進めるための「ミニゲーム」と化しているとも言えます。戦闘という「ゲーム内ミニゲーム」をクリアした者がストーリーを先に進める権利を得る。そんな感じのゲームデザインです。

 もちろん、日本のRPGの目指しているものが、「戦闘」のみであるなら文句は言いません。でもそうではないでしょう? わたしの見る限りでは、日本のコンピュータRPGだって、ファンタジー世界での壮大な物語とか、わくわくする冒険とか、そういった昔と変わらないものをテーマにしているはずです。それなのにゲーム性が戦闘のみに片寄っているのはおかしい。例えば、ファンタジー世界での冒険をテーマにしているのなら、その「冒険」自体をゲームにすべきではないでしょうか。「冒険」=「戦闘」では無いでしょう。なぜその「冒険」部分をゲームにしないのか。
 例えば、日本のコンピュータRPGでは、戦闘以外でまったく経験値がもらえません。わたしは、このことにとても強い不快感を覚えるのです。トラップや仕掛けを回避しても経験値はなし。宝物を首尾よく手に入れても経験値は入らない。イベントをクリアしても経験値は一切入らない。これおかしくないですか? プレイヤーは冒険者でしょう。ならば冒険を通じて何らかの経験値が入らないとおかしい。戦闘でしか経験値が手に入らないというのはどう考えても納得がいかないわけです。戦闘さえ強ければ冒険者としてレベルが高いとでもいうのか。
 さらには、プレイヤーの持つステータスも、戦闘の能力ばかりでなく、戦闘以外の能力も存在してしかるべきでしょう。ダンジョンの罠を回避する能力とか、人から情報を聞きだす能力とか、そういったステータスが存在して、冒険を通じて成長する方がずっと自然です。そして、戦闘以外の場面でそうした能力を使うことによって、経験値が入ってそちら方面のステータスも成長していくわけです。これこそが本当に自然な冒険ではないか。

 冒頭のD&Dの説明の中で「D&Dでは宝を持ち帰るだけで経験点が得られるから、必ずしも戦闘をする必要は無い」と書きましたが、これはわたしに言わせれば当たり前のことです。D&Dの冒険というのは宝を得るのが最大の目的で、冒険者としてその目的を達成したのだから経験値が入るのが当然。逆に冒険者の目的は戦闘では無いのだから、必ずしも戦闘をする必要がないようにゲームデザインするのも当然です。非常にストレートでわかりやすいゲームデザインといえるでしょう。逆に日本のRPGは、プレイヤーの冒険をテーマにしながら戦闘をやらないと先に進めないという、かなり歪んだゲームデザインになっているといえます。


 しかし、なぜここまで戦闘のみにゲーム性が片寄ってしまったのか、その原因はなんでしょうか。わたしは、これは日本のコンピュータRPGが辿ってきた歴史そのものに原因があると見ています。ここで前章から続いて、コンピュータRPGの元祖「ウィザードリィ」に登場してもらいますが、結局そのウィザードリィから基本的なゲームデザインが何も変わらなかったのではないか。
 ウィザードリィは、もともと「D&Dの戦闘部分の面白さをコンピュータゲーム化する」という基本コンセプトがあり、そのためゲームデザインはダンジョン探索と戦闘に特化されていました。とにかく戦闘とダンジョン探索にゲーム性が集中した、非常にシンプルなゲームだったのです。そしてこのゲームを元祖として、ストーリーや演出、あるいは戦闘システム自体がどんどん進歩したRPGが日本でもデザインされるようになり、RPGというジャンルが発展してきました。ところが、一見「発展」してきたように見えて、実はゲームの外枠はあまり変わっていないのではないか。言うなれば、ウィザードリィの戦闘に特化したゲームデザインをいまだに引きずっています。

 ウィザードリィのゲームデザインがダンジョン探索と戦闘のみであるのは、ひとえに最初からD&Dの戦闘部分をコンピュータゲーム化しようというコンセプトあればこそです。しかし、その後のRPGは、決してこのような戦闘に特化したゲームデザインではなく、むしろストーリーや世界観を重視しています。にもかかわらず、今だにシステムは戦闘主体のままなのです。ある意味、日本のRPGは、ウィザードリィを元祖とする戦闘ゲームにストーリーが加わっただけとも言えるでしょう。いや、最近はストーリーの方が重視されるみたいだから、むしろ「ストーリーを見せることが中心で、それに戦闘ゲームが加わっているだけ」と言ったほうが正しいのかもしれません。

 そして、これは、日本のゲームデザイナーの怠慢の結果でもあると思います。ゲーム全体を見据えてゲームをデザインしようとせず、ストーリーはストーリー、戦闘システムは戦闘システムと部分部分のデザインを変えてきただけだった。その結果が戦闘以外のゲーム性の欠如と戦闘のミニゲーム化。日本のRPGのほとんどは、ストーリーと戦闘システムがすげかわっているだけで、あとの基本デザインはどれも同じなのです。そう思いませんか?


・まとめ
 では、今回もまた恒例のまとめを置いて終わりにします。


(2013年4月追記)
 これもまた10年以上前に書いたものですが、やはり今では少し当てはまらないところが出てきました。戦闘以外にも配慮したシステムを持つRPGが、少しずつではありますが登場するようになり、かつてに比べれば進歩したところが見られます。

 その理由は、ひとつにはまず海外からのゲームの流入。いわゆる洋ゲーですが、その存在が以前より知られるようになり、本場のよりシステム重視のRPGが、日本でも見直されてきて、それに準じたデザインのゲームが、日本でも登場するようになったということ。そしてもうひとつは、なんと言ってもオンラインゲームの普及です。これも元は海外からの流入と言えますが、戦闘以外に物資の生産や日常生活などを行えるMMORPGが広く普及したことは、非常に大きかったと思っています。

 ただ、それでもなお、国産のコンシューマのRPGの多くは、上記のスタイルそのまま基本的に変わっていないのが主流なのもまた事実であり、いわゆる洋ゲーのRPGと対照を成している状態だと思います。よりシステム重視のコアなゲーマーは、海外のゲーム(もしくはそれに準じたゲーム)をプレイして、一方で今までどおりの日本のRPG(戦闘とストーリー主体)のゲームをやる層と、二極に別れてきたのがこの10年の大きな動向だと思っています(そしてこれはRPGに限らず、他のコンシューマーゲーム全般にも当てはまると思います)。


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