<現代RPG批判(5)まとめ〜日本のコンピュータRPGは「戦闘システム付きストーリー鑑賞ゲーム」だ(改訂版)>

2001・7・9
全面的に改訂2013・4・14

 さて、ここまで、様々な側面から今のRPGに対する不満点を列挙してきました。この章ではそれらの点をまとめ、日本のRPGに存在する問題点を集約していきたいと思います。

 ここまでの4章では、RPGの一つ一つの部分部分に対する不満を書いてきたわけですが、しかし、わたしは、そういった個々の部分に対する不満よりも、むしろ日本のRPGの全体的なゲームデザインに非常に不満を感じます。何というか、ゲームデザイン全体がRPGとして異質な方向に向かっていて、本来あるRPGのスタイルからは大きく変質してしまっている。具体的には、日本のコンピュータRPGは、もはやRPGではなく、「戦闘システム付きストーリー鑑賞ゲーム」になってしまっているのです。


・戦闘しかやることがない?
 今のRPGをプレイして毎回のように感じるのは、とにかく「(ゲーム的には)戦闘しかやることがない」という点に尽きます。いや、本当に戦闘しかやることがありません。現代RPG批判(3)でも書きましたが、戦闘以外でやることは、フィールドと街とダンジョンを歩いて、イベントを見てストーリーを進めるだけ。「ゲーム的に」戦闘しかやることがない。戦闘以外の部分において、ゲーム性のある部分がほとんど存在しないわけで、純粋にゲーム部分だけを取り上げれば、完全に「戦闘ゲーム」と化しているわけです。

 「戦闘ゲーム」であることが、必ずしも悪いというわけではありません。ここまで何度も取り上げた「ウィザードリィ」だって、やることは戦闘と迷宮探索のみです。しかしウィザードリィは、最初からD&Dの迷宮探索と戦闘部分のおもしろさをコンピュータゲーム化しようというコンセプトのもとに作られています。つまり、はじめから「迷宮探索と戦闘のおもしろさ」を楽しむことがコンセプトなのだから、ウィザードリィが戦闘ゲームであるのはむしろ当たり前なのです。

 ところが、今の日本のRPGの多くは、必ずしも戦闘のみを楽しもうというコンセプトで作られているとは思えません。ストーリー的に見ても、戦闘が物語の中心とは思えない。それなのに、なぜゲーム性が戦闘にのみ集中しているのか。これが日本のコンピュータRPGに対する最大の疑問なのです。
 日本のRPGで、例は何でもいいんですが、例えばオーソドックスなファンタジーRPGを思い出してください。主人公達は必ずしも戦闘中心の生活を送っているわけではありません。ストーリー的に言っても主人公達は冒険者だったり、何らかの事態に巻き込まれて冒険に出るケースがほとんどです。「冒険」=「戦闘」ではないですよね。ではなぜ、その「冒険」そのものをゲームにしないのか。ダンジョンの探索。情報収集。人々との会話・交渉の駆け引き。冒険資金の確保。フィールド上の長い旅をいかに乗り切るか。などなど。いくらでもゲーム化する要素はあるはずです。
 あるいは、日本のコンピュータRPGでは「ゲーム部分=戦闘」であることが暗黙の了解となっている可能性もあります。ゲーム雑誌やゲームサイトのレビューを見ても、システム=戦闘という書き方をしているケースは多く見られます。もう「日本のRPGのシステム=戦闘」というスタイルが当たり前になって久しいのでしょう。

(余談)
 これは完全な余談ですが、あの「ドラクエ7(ドラゴンクエスト7)」をプレイした人はちょっと目を通してほしいことがあります。ドラクエ7では、まず。そのプレイを開始して2〜3時間くらいは戦闘が発生しません後も、(多少ゲーム内容に言及しますが)2つある世界のうち1つではほとんど戦闘が発生しません(具体的には、フィールド上に敵がいない)。その分、石版集めに代表される様々な謎解きや、人々とのヴァリエーションあふれる会話や3Dマップを駆使した町や村の探索、そして一見システムとは無関係に見える仲間との会話など、戦闘以外での面白さが全体に散りばめられていて、必ずしも「戦闘」ばかりのデザインにはなっていません。

 で、わたしは、このようなデザインこそRPGの本来の在り方だと思うのですが、かつてネット上で意見を見渡した限り、必ずしもそういう意見ばかりではありませんでした。特に、ゲーム開始から2・3時間戦闘がないことについての批判がかなり多かったように思えます。
 わたしには、なぜそれが批判されるのか、その理由がまったく分かりませんでした。ひょっとして、日本のRPGプレイヤーは、まず「戦闘」にしかカタルシスを見いだしていないのか?とも考えました。もしそれが本当だとすると、なんとも寂しい限りだとも思いました。

(2013年4月追記)
 もともと、この「現代RPG批判」を書くきっかけとなった大きな理由のひとつが、上記ドラクエ7に対する不可解と思える評価の数々でした。ドラクエ7は、明確な欠点が他にもいろいろあって、必ずしもいいゲームとは言えないところはありました。しかし、「プレイ開始時から2〜3時間ほど戦闘が発生しない」ことに対する批判、これは明らかにおかしいと思ったのです。それはむしろRPGとしては本来的なスタイルではないのか?と。このあたりのユーザーの反応から、日本のコンピュータRPGが決定的に変質していることを実感したのです。


・「ゆがんだゲームデザイン」とは何か。
 さて、このようにゲーム部分が戦闘に片寄った結果、日本のRPGのゲームデザイン全体が変質し、ゆがんできてしまいました。ここでは、この「ゆがんだゲームデザイン」について具体的に説明します。
 日本のコンピュータRPGでは、戦闘にゲーム性が集約された結果、戦闘以外でプレイヤーを成長させる手段がありません。戦闘をこなさないと経験値がもらえないわけです。これが、ウィザードリィのように、始めから戦闘がゲームの中心であるならいいんですが、しかし日本のRPGのようにゲームの中心が別にある場合だと、非常に大きな問題として浮上してきます。

 わたしが、とあるRPGをプレイしていた際、敵に見つからないように要塞に潜入するイベントがありました。こういったイベントは、様々なRPGでよく見られます。そして、この場合、ストーリー的な観点から見れば、「敵に見つからないように要塞内部の目的地まで達する」のが最善の選択のはずです。ところが、実際には、そこでも敵が出現し、彼らと戦って経験値を稼いでプレイヤーを成長させないといけません。いや、戦わなくてもいいのですが、戦って経験値を稼いだ方が、ゲーム的には得なわけです。ゲーム的には、ストーリーを無視して敵を倒していくのが最良の選択なのです。つまり、「ストーリー的には敵を避けていくのが最良の選択のはずなのに、ゲーム的には敵を倒して経験値を稼ぐ方が得。」というゆがんだ状況が起こっているのです。ストーリー上の目的とゲーム上の目的が一致していない。これこそが、まさに「ゆがんだゲームデザイン」です。

 今挙げた「敵の要塞への潜入」というイベントは、あくまでひとつの例にすぎません。実際には、日本のRPGには、全編に渡ってこのようなゆがみが見られます。ストーリー的に「なぜ戦闘しなければならないのか」というシーンがとても多いわけです。

 もうひとつ例を挙げます。わたしがプレイしたゲームで、「病気に効く薬草がダンジョンの奥に生えているからそれを採ってきてほしい。病人が危篤で一刻を争うからとにかく急いでほしい」というお使いイベントがありました。というか、こういったイベントは、日本のRPGでは全然珍しくありません。この場合、ストーリー的には、とにかく急いで薬草を手に入れて、一刻も早く帰還することが最善の行動のはずです。したがって、その最善の行動を成したときに、ゲーム的にも最大の見返りがないとおかしい。ところがどうでしょう。実際には、いくら途中の戦闘を避けて全速力で帰ってきても、経験値は1ポイントももらえません。それよりもストーリーを無視して、途中でひたすら戦闘をこなして経験値とお金を稼いだほうが、ゲーム的には有利なわけです。おかしいと思いませんか?
 というか、なんで戦闘以外で経験値が得られないのでしょうか? ストーリー上の目的が戦闘ではないにもかかわらず、ゲーム的にはひたすら戦闘をこなさないと先に進めないというゆがんだ構成。日本のコンピュータRPGは、このようなゆがんだ構成に満ちています。

(2013年4月追記)
 上記の、わたしがプレイした「病気にきく薬草がダンジョンの奥から取ってくる」というイベントがあるRPGとは、確かスターオーシャンだったと思います。「敵の要塞への潜入」は、何のRPGだったか具体的には忘れましたが、まあその手のイベントがあるRPGは無数に存在するので、いちいち例を挙げる必要もないでしょう(スターオーシャンシリーズにも当然あります)。

 この「スターオーシャン」というゲームは、シリーズのどれも戦闘システムが非常に面白くて、それが大きな魅力となっています。それ自体はまったく問題ないのですが、しかしストーリー的に急を要するイベントが何度もあるのに、戦闘が面白いゆえについつい道中で戦闘ばかりやってしまうのは、我ながらえらく抵抗がありました(笑)。このシリーズはまだ戦闘が面白い分いいのですが、これが戦闘が平凡であまり面白くないゲームの場合、戦闘はだるい上に、ストーリーとも折り合いが悪くて、ストーリーを放り出してだるい戦闘を何度もこなすことに抵抗を感じ、プレイ中に次第に精神的ストレスがたまってくるわけです。これが、やがてわたしがRPGをやめてしまった大きな理由となっています。


・「戦闘システム付きストーリー鑑賞ゲーム」とは?
 ここまで読まれた方は、もうこの章のタイトルの意味するところはおわかりだと思います。そう、日本のコンピュータRPGを「戦闘システム付きストーリー鑑賞ゲーム」といった理由。それは、ゲーム性が戦闘に片寄った結果、戦闘という要素が、半ばゲーム本編のストーリーの目的からかけ離れてしまい、ほとんどゲーム本編に付属する「ゲーム内ミニゲーム」と化しているからです。
 そもそもゲーム内に戦闘しかゲーム性がない時点で、戦闘がミニゲーム的な雰囲気を帯びるのは当然とも言えますが、それに加えて、その戦闘がストーリーからも乖離するとなると、さらにミニゲーム的な感覚は増してきます。それを割り切って楽しむのが、日本のRPGのプレイスタイルとも言えますが、しかし、それは本来のRPGのプレイスタイルからは、大きくかけ離れていると思います。

 なぜこのようなゲームとなったのか。わたしに言わせれば、これはウィザードリィや初期のドラクエのような、システム指向の強いゲームから、戦闘部分のみをゲームシステムとして取り出し、それに安易にストーリー要素を加えただけでゲームを作ってきたゲームデザイナーの怠慢にあると考えています。日本のコンピュータRPGは、ウィザードリィ的な戦闘ゲームにストーリーイベントがくっついているだけとも言えるでしょう。いや、最近はストーリー指向だから、むしろストーリーを見せることが中心で、それに戦闘ゲームがくっついているとも考えられます。まあ、どっちにしろ同じことですね。
 理由はともかく、このように日本のRPGが、「戦闘システム付きストーリー鑑賞ゲーム」になってしまったために、その面白さは著しく削がれたと思っています。ひとつのゲームの中に、ストーリー部分とゲーム部分、ふたつのパートがあるような感じで、ストーリー部分がメインとするならばゲーム部分(戦闘)はそれに付属するミニゲーム状態である。そして、その戦闘以外にゲーム的にやることがない。戦闘以外にやることといえば、キャラクターの移動と、作業的な人々との会話による情報収集(?)、それとダンジョンでパズル的な仕掛けを解くことぐらい(これもミニゲームですね)。あとはストーリーイベントを眺めるだけ。こうやって書いていくと、日本のコンピュータRPGって、ゲームとして何が面白いのかまったく説明できないと思います。


・戦闘に関する不満
 そして、さらに問題なのは、その戦闘までがまったく面白さを感じないことです。戦闘しかやることがないのに、その戦闘まで面白くなかったら、あとに何が残るのか?
 戦闘システムの問題点については現代RPG批判(2)で詳しく語っているので、そちらを読んでいただきたいのですが、ここで改めてもう一度まとめていえば、「戦略性が少なく、適当にプレイしても先に進めてしまう。」という一点につきます。具体的には、ボス戦でHPとステータスの管理くらいしかやることがない。通常攻撃と回復魔法だけですべてOKというゲームも珍しくない。20年前のゲームであるウィザードリィよりも戦略性が劣るゲームは多々あります。
 それと、もうひとつここで不満点を追加。長すぎる戦闘演出、エフェクトやムービーも勘弁してください。ハードの性能が上がるうちに、ただの魔法のエフェクトに10秒も20秒もかけるゲームが出てきてしまいました。また、3Dポリゴンが普及するようになって、戦闘シーンで意味もなくポリゴンを使ってくるゲームも増えました。これもほとんど無駄な試みでしょう。

(2013年4月追記)
 ゲームのほとんどが3D化した今では、もうこんなことを言うのも無意味ですが、10年前、15年前のポリゴン草創期には、意味もなく戦闘だけポリゴンを使って3D化とかそういったゲームをよく見かけました。しかし、ほとんどのゲームでは、無駄に荒いポリゴンで粗雑な演出を行うだけで、まったくの逆効果だったと記憶しています。ここの記述はその名残です。今ではさすがに3D技術が進んで演出はずっと向上していると思います。


・その他、もろもろのこと。
 これ以外にも、経験値による成長システムがまったくゲームの楽しさに結び付いていないばかりか、経験値稼ぎという苦痛をプレイヤーに与えているとか(現代RPG批判(1))、ゲーム的なお約束が多すぎてまったくストーリーにのめりこめないとか(現代RPG批判(4))、いろいろと不満点が多すぎます。これらの原因も、遡ればすべて「戦闘システム付きストーリー鑑賞ゲーム」であることに端を発するような気もしますが、しかしここまでゲーム全体に問題が広がりすぎると、もうちょっとやそっとの工夫では改善するのは難しいでしょう。日本のコンピュータRPGは、ゲームそのものをいちから作り直すくらいの、徹底的な改革が必要だと思います。


・まとめ
 では恒例の、これが本当に最後のまとめです。


(2013年4月追記)
 この記事は、今から10年以上前の2001年に、5章ほどまとめて書いたものです。この後の章は、その後に思いつくたびに追記して書いたものなので、ここまでで一応の終了ということになります。

 元の記事はひどく拙いものでもありましたが、それでもそれなりの反響はあったようで、好意的な意見をいただくことも多々ありました。特に、1章に関してはかなり多くの人に納得いただけたようで、わたし自身ここはそれなりによく書けたところだったなと思っています。とはいえ、全体を通して自分だけの個人的な不満だとばかり思っていたので、賛同していただけるだけでとてもうれしかったものです。当時から和製コンピュータRPGに不満を持っている人は、意外に多かったようで、この記事をきっかけに、当時は開設していたサイトの掲示板にゲームプレイヤーの方が何人も来訪され、意見を交わしていたことを懐かしく思い出します。

 そして、あれからもう10年以上も経ってしまい、今ではこの記事も当てはまらないところが多くなってきたと思います。あれから、海外のRPGの流入、オンラインゲームの普及、それに影響を受けた日本側のソフトの制作方針の変化、あるいは意欲的なオリジナル作品の制作などで、当時に比べればかなり改善され、少なくとも悪くはなっていないように思われます。

 ただ、それでもいまだにこの記事にはアクセスがあり、10年以上経った今でも賛同の意見が寄せられることがあって、これには本当にありがたいと思うと同時に、いまだにこの記事に需要がある(まだ今の日本のRPGにこのような色濃く要素が残っている)ことを改めて感じて、かつての拙かった記事を全面的に書き直すことにしました。今回、なんとか5章までその作業を終えてほっとしています。

 ところで、2章の後書きでも少し書きましたが、こうした日本のRPG独特のスタイルは、日本ならではの独自の進化の道を辿った結果だと思っています。そして、それは他の日本のゲーム全般に言えているのではないか。例えば、日本で大ヒットしている「モンスターハンター」シリーズは、全体的に海外の評価は芳しくないようです。これには様々な要因が考えられますが、ひとつには誰でもやりこめば前に進める日本のRPG的なスタイルが、日本では受けたが海外ではいまいち受けなかった結果ではないか。こうした日本のゲームならではの独特の姿を浮き彫りにしたという点でも、この記事を書いた甲斐があったのではないかと思っています。


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