<ソーシャルゲームにゲーム性は存在するのか>

2013・10・3

 以前から、携帯でプレイするいわゆるソーシャルゲームに対して、昔からゲームをプレイしているプレイヤー、ゲーマーの間で、「ソーシャルゲームにはゲーム性がない」という批判をよく見かけます。これは今に至るまでそうで、ソーシャルゲームはゲーム性が乏しいという意見が、コアなゲームプレイヤー(この場合ゲーム機やPCなどでプレイするコンピュータゲームのプレイヤー)の間では主流であるように思われます。

 批判の内容としては、「ボタンを押すだけで何もすることがない」「考える要素がない」「金をかけた(課金した)ものが勝つというただそれだけ」という意見をよく見かけます。さらには、課金を巡って大きな社会問題にもなったニュースにも影響されて、この手のソーシャルゲームの悪影響と結びつけて語られることも多くなり、「ひたすらガチャでプレイヤーの射幸心をそそり、いわば金を巻き上げることに力を入れるばかりで、一方でゲーム性はまったくない」という意見が、大勢を占めた時期もあったと思います。

 これに対して、当時ソーシャルゲームをプレイしていなかったわたしは、この手のゲームの実態が分からず、それらの意見が正しいのかどうか判断できませんでした。しかし、その後少しではありますがゲームをプレイする機会を得て、思いのほか長らくプレイを続けることとなり、こうした意見に対して疑問を呈するようになってきました。確かに、一部でこれらの批判が当てはまるところもあるものの、しかしゲーム全体として「ゲーム性がない」とはとても言えないと感じました。むしろ、かなりの長期間飽きずにゲームを続けることが出来たのは、決してレアカードに対する射幸心だけでなく、純粋にゲーム部分にはまっていたからと断言できました。

 ここからは、具体的にソーシャルゲームのどこにゲーム性を感じたのか、昔の従来型のゲームとの比較も兼ねて、逐一書いていこうと思います。


・従来の和製RPGでも、ダンジョンの移動・探索にゲーム性はほとんどない。
 上でも書いたとおり、この手のゲームのゲーム性に対する批判の根幹を成しているのは、「ただボタンを押すだけでそれ以上何もすることがない」という点だと思います。特に、ゲーム中のフィールドやダンジョンの移動については、ボタンを押すだけで機械的に前に歩くだけで、広がったマップを自由に探索するという要素はありませんでした。しかし、この点に関しては、ゲーム開始当時こそは若干物足りなくも感じましたが、しかし意外にもすぐに慣れてしまい、従来型のRPGと比較しても、それほど劣るとは感じなくなってしまいました。

 これについては、一般的なコンピュータRPG(この場合日本製の和製RPG)において、「ダンジョンの移動・探索」にどれほどのゲーム性があるか、そのことを再考する必要があります。というか、和製RPGにおいて、ダンジョンの移動と探索という要素は、思った以上にゲーム性に乏しいのです。
 これは、ダンジョンの構造に大きな問題があり、単にダンジョンをくまなく回ってボスへ至る道を探し、あるいは道中の宝箱を回収する、そのプレイスタイルがあまりに作業的で、「単にダンジョンの各所を巡回しているだけ」でなんら攻略性を見出せないからです。いわゆるダンジョンの仕掛け・罠の類いも、その場で何かしら独立したミニパズルのような仕掛けを解くだけで、とてもダンジョン全体とつながったゲーム性があるとは思えないものが大半です。

 こうした既存RPGの実情と比較して、こうしたソーシャルゲームのただ前に歩くだけというスタイルは、別段それほど劣るものとは思えません。むしろ、わずらわしい巡回や仕掛けを考えずに済むだけ、こちらの方が「まし」とすら言えるのです。

 また、これについては、最近のソーシャルゲームよりずっと以前に、ダンジョンやフィールドの移動の要素を大幅に省略したゲームの存在を知っています。スクウェアから2001年に出た「ワイルドカード」(→画像)というゲームで、カードですべてが表現され(キャラクターのみならずダンジョンの各シーンまでも)、ダンジョンの迷路構造などはなく、ただ前に進むことで戦闘や難所などのイベントにすぐ遭遇するというスタイルを確立していました。今でも画期的なゲームだったと記憶しており、これがのちに「アンリミテッド:サガ」というゲームにつながっています。


・戦闘そのものよりも前準備の方が重要なゲームを忘れてはいないか。
 移動の次に、今度は戦闘のシステムについて考えてみます。こちらでも、「ただボタンを押すだけでそれ以上何もすることがない」という批判は共通しています。

 これは確かにそのとおりでもあり、ソーシャルゲームの多くの戦闘は、戦闘中になんらかの操作をするシステムは多くなく、最初に戦闘に突入した後ほぼ見ているだけ(もしくはカットするだけ)のものが非常に多く、従来型RPGのように適切なコマンドを選んだりタイミングよくアクションを起こしたりするシステムが存在しないものが主流のようです。(*ただし、最近のゲームには戦闘でもなんらかの行動を取れるものも登場しているようです。)

 しかし、戦闘自体でやることがないからといって、戦闘にゲーム性がないとは必ずしも言い切れません。具体的には、戦闘そのものより、その戦闘の前の段階で、何らかの前準備をする余地があり、そのセッティングによって戦闘の結果が変わるというシステムを採用していると思われるからです。
 戦闘の前にいい武器や防具を購入し、あるいは効果的な魔法やスキルをセッティングし、あるいは強い仲間に切り替えて、戦闘に突入する。こうしたことは、従来型のRPGでも当たり前に行われる基本的な戦略です。それは、このソーシャルゲームでもまったく同じことが言え、単にこの事前準備の方にウェイトが大きくかかったゲームだと考えれば、別段不自然でもなんでもありません。

 わたしがプレイしたゲームの中で、とりわけこうした事前準備のウェイトが大きかったゲームとして、エニックスのスターオーシャンシリーズ、特に「スターオーシャン セカンドストーリー」を思い出します。戦闘前に強い装備品を開発することで一気に戦闘が楽になり、ファーストプレイで撃破に1時間以上かかっていたラスボスを、再プレイではわずか1分で倒せたのには本当に驚きました。このゲームの奥深さを象徴する思い出で、戦闘に突入する以前のシステムを大きくクローズアップしたゲームの代表だと思います。
 あるいは、スクウェアの「クロノ・クロス」。これも、戦闘前に属性を考えて「エレメント」をセッティングするという要素が非常に重要で、戦闘の成否に直接かかわっています。こちらも戦闘前準備の方がはるかに重要なゲームとも言え、それゆえに「すべての戦闘から逃げ出せる(=いつでも戦闘前セッティングのやり直しが出来る)」というシステムを採用しているほどです。

 あるいは、「マジックザギャザリング(MTG)」を先駆けとするトレーディングカードゲームも、事前準備の重要性という点では共通しています。あらかじめ、メタ(状況)にあった「デッキ」を組むことで、対戦開始の時点で大きな優位性を得ることが出来る。ソーシャルゲームも同じく複数のカードでデッキを組むというシステムから、これらのカードゲームとの共通点は大きいと言えますし、このデッキの構築部分に何らかのゲーム性があることは疑いないところです。「戦闘中何もすることがない」という批判は、こうした点をあまりに無視していないでしょうか。


・現実の時間というリソースをやりくりするところにゲーム性は確かにある。
 それに加えて、この手のソーシャルゲームには、従来型のRPGにはないゲーム性も感じられます。それは、「現実の時間」というリソースを駆使したゲーム性です。

 リソース(resource)とは、元はコンピュータ用語のようですが、ゲームで使われる場合、プレイヤーの持つなんらかの資産や資源を指します。アイテムやお金というものはまさに「資産」ですし、レベルやHPやMP、ステータスなども、広い意味でリソースに含まれます。そして、RPGというゲームは、結局のところこの「リソースの変換作業」に他なりません。

 具体的には、まずフィールドやダンジョンで敵と戦うという行為は、HPやMPを消費してお金と経験値を得る作業と言えます。そして、そのお金を消費して、宿屋でHPやMPを回復し(=お金をHPやMPに変換し)、武器屋や道具屋でもお金を消費して装備品やアイテムを得る(=お金を装備品・アイテムに変換する)。そしてさらに戦闘をこなして経験値を積み重ねてレベルを上げ、各種ステータスを上昇させる。これは経験値をレベルとステータスに変換する作業と言えます。
 このように、およそRPGというものは、突き詰めれば「リソースの変換作業」というゲームに他ならないわけです。そして、ソーシャルゲームにおいては、ここにもうひとつのリソースが加わります。わたしたちが日々過ごしている現実の時間です。

 多くのソーシャルゲームは、現実の時間の経過によって、何らかの「行動値」にあたるものが回復し、それを消費することでなんらかの行動(移動もしくは戦闘)が行えるというシステムになっています。従来型のコンピュータRPGなら、宿屋に泊まってHPやMPを回復するわけですが、ソーシャルゲームにはそのような施設は存在せず、代わりに現実の時間の経過がその回復手段となっているのです。
 これによって、「いかに現実の時間をやりくりするか」という新しいゲーム性が生まれました。これは、ソーシャルゲーム以前のオンラインゲーム(MMORPGなど)でも共通したゲーム性なので、本来ならばいまさらここで挙げるまでもない話です。

 しかし、ソーシャルゲーム批判においては、この現実の時間をリソースとするゲーム性が、あまり顧みられないように思われます。これは、行動値を現実のお金によって回復して進める、いわゆる「課金プレイヤー」がシステム的に非常に強く、無課金プレイヤーとの間の格差の方が目立っていることも大きな理由でしょう。しかし、それでも時間の管理というシステムの根幹はきっちり存在していて、多くのプレイヤーがそれを楽しんでいることも事実だと思います。


・リアルマネーというまたとないリソース。すべてのゲームがゲーム内で完結するとは限らない。
 さらには、今書いた「現実のお金」がリソースであることも重要です。お金をかければかけるほど有利になる、あるいはほしいカードが手に入る。それがあまりにも射幸心をそそって現実に被害が出たということで、社会問題にまで発展したわけですが、しかし本来的には、うまくバランスを取っているゲームならば、これはこれで十分に面白いシステムになっているはずなのです。

 個々のプレイヤーの経済状況とゲーム内の状況を見て、どの程度課金すべきかどうかを考える。これは、現実のお金というリソースをダイレクトに活用するもので、やはりリソースを変換するというゲーム性が厳然として存在します。現状のソーシャルゲームの多くの課金要素が、いわゆる「ガチャ」を回すのと行動値の回復が中心で、それ以上の工夫がないのが残念なところで、まだこのシステムには改善の余地があると思いますが、しかしこうしたリアルマネーがゲームにかかわるシステム自体が悪いとは言えない。

 しかし、こうした、現実のお金(リアルマネー)がゲームの攻略・勝敗に大きくかかわるというスタイルは、これまでむしろソーシャルゲーム批判の中心となってきた感があります。「リアルマネーがゲームに関わるのでは、本来あるべき平等なゲーム性があるとは言えない。純粋にゲーム内のプレイヤーの技術ややり込みによって、ゲームが有利になるようにするべきである」と、こうした意見です。

 こうした意見が従来のゲームプレイヤーの間で盛んに出てくるのは、「ゲームのシステム・ゲーム性はゲーム内で独立すべき」という昔ながらのゲーム観が根強く残っていることが原因だと思います。「現実では個人の地位や貧富の差はあるが、ゲームの世界ではみな平等である。純粋にゲームのうまいプレイヤーが勝つのだ」という昔からある伝統的なゲーム観です。

 これは、決して間違っている考えではなく、ゲームの持つ特徴のひとつをよく捉えてはいますが、しかしすべてのゲームがそれに当てはまるとは限らないでしょう。現実の時間やお金がアドバンテージとなるゲーム。それは決して珍しくはないはずです。例えば、MTGや遊戯王のようなトレーディングカードゲームは、高いレアカードを集めたり遠くの大会に参加するために、お金を持っているプレイヤーが明らかに有利ですが、そんな理由をもってこの手のカードゲームはダメだ、ゲーム性に乏しいとでもいうのでしょうか?


・結局、ソーシャルゲームへの批判は、保守的なゲーマーの無理解に過ぎないのではないか。
 以上のように、いわゆるソーシャルゲームは、決して「ボタンを押すだけ」とよく批判されるようにまったくゲーム性がないことはありえず、むしろ移動を単純化し戦闘でも前準備に重点を置いたゲーム性と、さらには現実の時間・現実のお金(リアルマネー)をリソースとしてゲームに組み込んだゲーム性が厳然として存在しており、明らかに相当な量のゲーム性が存在していると言えます。わたし自身、実際にプレイして強くそう感じましたし、「意外にも考える要素はかなりあるな」というのが率直な感想でした。実は、プレイする以前は、他の人同様に、この手のゲームが本当に面白いのか多分に疑っていたのですが、その考えを改めざるを得なくなりました。

 むしろ、こうしたソーシャルゲームへの批判は、昔の保守的なゲーマーの無理解に過ぎないのではないかと考えています。それに、このように昔のゲームプレイヤー・ゲーマーが、新しいタイプのゲームを批判するという光景は、今まで何度も見られてきました。初期の格闘ゲームが得意だったゲーマーが、新しく出た格闘ゲームについていけずに、何らかの文句を投げかけて最初からプレイを避けていた光景は、以前は本当によく見かけました。また、90年代以降盛んになったノベルタイプのゲーム(ビジュアルノベルや美少女ゲーム)に対して、「ゲーム性がない・乏しい」という批判は定番のようにかなり長い間見られてきました。

 わたしの私見では、こうしたコアなゲームプレイヤーたちの中には、意外にも保守的な人が多いように見受けられます。つまり、自分の得意なゲームは長くプレイするが、新しいタイプのゲームには中々手を出そうとしないのです。さらに、ソーシャルゲームの場合、一見してライトユーザーに向けた手軽なタイプのゲームにも感じられ、ゲーマーがやるような奥の深いゲームには見えなかったことが、彼らにプレイされず無理解なままで放置された大きな原因のようにも思えるのです。

 これは、必ずしも間違った認識ではありませんが(「携帯で気軽に短時間でも楽しめるゲーム」というコンセプトで作られていることは間違いない)、しかし、それでゲーム性すべてを否定されるほど劣ったゲームとは思えません。むしろ、「気軽にプレイできるゲームながら、何らかのゲーム性をしっかりと備えていたからこそ、ここまで人気が出て大ヒットした」というのが、正しい評価ではないでしょうか。こうした正しい評価が、肝心のゲームを知っているはずのオールドゲーマーから出てこなかったのは、非常に残念なことだと思っています。


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