<「東京トイボックス」に見る「ゲームの不親切さ」への考察>

2006・5・30

 「東京トイボックス」というマンガがあります。
 これは、ゲームクリエイターが主人公のマンガなのですが、同系の作品の中でも特に面白い作品です。最近、オタクを扱ったマンガ作品が多く見られるようになりましたが、このマンガはまったく出来が違う。本職のゲームクリエイターに対して綿密な取材を重ねた上で描かれており、リアリティが本当に素晴らしい。ただ、ここでいうリアリティとは、ゲーム制作シーンのリアリティではないのです(むしろ、その点では少々大げさに描きすぎているところがあります)。ここでのリアリティとは、主人公たちゲームクリエイターたちが有する心理面での描写のリアルさです。「こういう状況に陥ったらこう考える、考えてしまう」という、そのあたりの制作者の心理がすごくよく描けている。これは綿密な取材がないと出来ないことでしょう。このマンガは、モノ作りに携わっている人ならば必見ですよ。ゲームクリエイターやクリエイター志望、ゲーム好きのゲーマーの方だけでなく、幅広くいろんな人に読んでほしい。

 ストーリー的には、大手企業に勤めるSEでバリバリのキャリアOLである月山星乃が、同じ部署の部長の策略で末端のゲーム製作会社・G3に出向させられ、そこで面白いゲームを作ることに命を賭けるゲームクリエイター・天川太陽と出会うというもの。ゲームについて何も知らず、仕事をこなすことを最優先するキャリアと、面白いゲームを作ることを最優先にするクリエイターが、互いに意見の相違をぶつけながらゲームを作っていく・・・というストーリー。これだけだと本当にありがちな構図で、平凡なストーリーにも見えますが、ところがこれが本当に面白い。
 このマンガのいいところは、基本的に悪い人間がいないということ。最初、このストーリーを知った時には、「面白さを最優先するゲームクリエイター・太陽の熱意が、ゲームにまったく関心がない、わからずやのキャリア・星乃を動かす」という話だと思っていました。しかし、実際に読んで見るとそうではなかったのです。実は、星乃は決して仕事を優先するばかりのわからずやの人間ではなく、ゲームについては何も知らないながらも、太陽ら制作者たちを理解しようとする意志は持っているのです。そして、ふたりが意見の相違でぶつかりあいながらも、同時に互いの意志を確認し、妥協点を見つけて助け合いながら先へ進んでいくという、非常に前向きなストーリーになっているのですね。「主人公の熱意あるクリエイター=善、仕事優先でゲーム作りの邪魔をするキャリア=悪」という単純な構図には絶対になっていない。これは大いに感心しました。
 それと、太陽がかつて在籍していた大手ゲーム会社の凄腕プロデューサーで、かつて意見の相違で太陽がやめるきっかけとなった仙水という人物がいるんですが、この人の言うことも面白い。彼は、太陽と違い、ユーザーと会社の意向に沿って求められる完璧な仕事をする制作者なのですが、彼もまた悪人と言うわけではない。面白さにこだわるゲーム作りが理想的のは分かりますが、だからといって会社の意向に沿うビジネス優先での制作が悪いというわけではなく、彼には彼の考えがある。このあたりの描写が素晴らしい。

 以上のように、このマンガは、ゲーム業界、ゲームクリエイターの思想を知る上で非常に役立ち、マンガとしてのストーリーも面白いという、非常に優秀な作品になっていると言えます。



 さて、マンガの評論はこれくらいにして、ここからは肝心のゲーム論を進めます。
 このマンガ、単なるゲーム業界話だけでなく、今のゲームの面白さ(つまらなさ)についての主張が見られるのもポイントです。話の途中で、かつて主人公の太陽がはまったゲームとして「ドルアーガの塔」が登場し、これが「昔の不親切なゲーム」の代表として出てきます。ゲーム中の宝箱の入手方法がノーヒントで、その取得が至難を極めたため、今でも不親切なゲームの代表となっているわけです。

そして、「昔のゲームが不親切な分、自力でゲームを進めていくのが楽しかった。しかし、今のゲームは親切すぎてつまるところがなく、やらされている感が強いからつまらない」という結論にたどりつき、「今のゲームに『不親切さ』(自力で考えないと解けない要素、難易度)を追加することで、自分たち独自のゲームを作っていく」という方針で制作が走り出します。
 このゲーム制作のあり方を表現した、仙水局長の次の一言が面白い。

 ゲームの世界では単純作業を繰り返せば誰でも勇者になれる

 努力は必ず報われる世界でいいと思うんだよ

 でも太陽は、誰かに手を引かれて世界を救うような勇者ならいらないと言う

 やっぱりバカだ

 これは非常に説得力のある意見で、誰もがついつい賛同してしまいます。特に、昔の不親切で難易度の高いゲームを知るオールドゲーマーならば、「そうだ、昔のゲームは不親切だから面白かったのだ」と賛同する人が多いはずです。

 しかし、本当にそうか。

 確かに、「不親切であること」つまり、不親切である分、自力で一歩一歩攻略する喜びを与えてくれたことが、ゲームに熱中する要因を生み出した一因なのは間違いないところです。が、それがすべてではないとも思うのです。それは、あくまでひとつの要因に過ぎない。それを、まるでそれがすべてのように感じてしまい、「今のゲームがつまらないのは親切すぎて考える要素がないからだ」という、極めて単純な結論に達してしまうのは問題ではないのか。そう思うのです。

 そもそも、不親切という要素は、ゲームにとって不利な条件にもなりえます。誰も不親切でプレイしづらい「だけ」のゲームを好んでやろうとはしないのではないでしょうか。不親切なゲームに対して、なおも熱中してプレイし続けるのは、何かそれ以外に「プレイしたくなる」要素が備わっていたからだと考えます。それがなければ、単に不親切なだけのゲームがプレイされ続けるとは考えにくい。単にプレイヤーが辛い思いをするだけで終わってしまうでしょう。

 では、不親切さを我慢してでも「プレイしたくなる」要素とは何か。わたしは、大きく分けて次の3つの要素があると考えます。

  1. ゲームの基本部分が圧倒的に面白かった。単純に操作して楽しかった。
  2. キャラクターやストーリー、グラフィックやサウンドなど、ゲーム(システム)以外に惹かれる要素があった。
  3. 何か特別な理由で再評価され、世間の注目が集まっていた。
 前述のドルアーガの場合、この3つのすべてに当てはまる要素があります。
 まず、「1.ゲームの基本部分が面白い」という要素ですが、ドルアーガはまさにその通りで、単純に操作するだけで圧倒的な面白さがありました。操作性が非常に快適で、黎明期のゲームとしては珍しくアクションの爽快感が高く(今のゲームと比べても見劣りしない)、そして肝心のゲームの戦略性も非常に高いものがありました。1ボタンで剣と盾を使い分けるシステムが非常に面白く、かつゲーム内のランダム性の配分が絶妙で、やればやるほどうまくなることを実感できるゲームでした。純粋にアクションゲームとしても実に面白い。これが「ドルアーガ」がヒットした最大の要因ではないか。
 大体、宝箱をノーヒントで見つける楽しみだけでプレイし続けるわけがないです。ゲームそのものが面白くなければ誰もやらないでしょう。まず、基本的なゲームシステムが面白くなければ誰もプレイしない。これは確信が持てる事実です。

 次に、「2.ゲーム以外に惹かれる要素があった」という要素ですが、ドルアーガの場合、やはりRPG的・ファンタジー的な世界観を採用したことが大きいでしょう。当時(1984年当時)は、剣と魔法の中世ヨーロッパ風ファンタジーというものが、日本ではまだ一般的ではなく、海外からそのジャンルの小説や映画、ゲームが次第に導入され始めていた黎明期の時代でした。そんな中で発売されたドルアーガは、当時のゲーマーに強く新鮮な印象を与え、これに惹かれてプレイする人は実に多かったのです。

 最後に、「3.何か特別な理由で再評価された」という理由ですが、ドルアーガだと、やはりファミコンへの移植版の発売が非常に大きいものでした。そもそも、最初にゲームセンターに登場したアーケード版ドルアーガは、あまりの高難度からマニア以外にはほとんどプレイされておらず、ごく一部のマニア層にしか認知されていませんでした。それが、当時爆発的なブームだったファミコンに移植され、さらにはファミコンからのプレイヤー向けに攻略本が多数発売され、そのおかげで誰でもプレイできるようになったことで、一気にプレイヤー層が広がったのです。さらには、ファミコンに移植されるにあたって、本作品とは別のヴァージョンである「裏ドルアーガ」なるモードも追加され、これがまた大きな話題を呼びました。事実、ファミコン版発売当時(1985年)は、他の並み居るファミコンソフトの中でも屈指の人気を誇り、あの「スーパーマリオ」が登場するまでは、このドルアーガが最高の人気ソフトだったと言われています。元のアーケード版ではマニア人気に留まっていたゲームが、ファミコン版の発売で一気に人目に触れ、多くのプレイヤーにプレイされる存在となった。実はこれこそが、ドルアーガがヒットした最大の要因でしょう。

 そして、このファミコン版においては、多くのプレイヤーが攻略本を片手にプレイしたことが大きなポイントです。元々、ノーヒントで宝箱を入手することは非常に難しいゲームであり、ほとんどの人が攻略本で宝箱の出し方を知ったうえでプレイして、それでも熱狂したのです。これは、「宝箱の出し方がノーヒント」という、不親切な要素なしでも、ドルアーガは十分に楽しめるゲームであったことを証明しています。何も不親切で攻略心をそそる要素抜きでも、ゲーム自体が非常に楽しかったのです。


・短絡的な結論に陥るべきではない。
 以上のように、「ドルアーガの塔」というゲームは、まずゲームの基本システム自体が非常に面白く、かつプレイヤーを惹きつける新鮮な世界観(剣と魔法の中世的ファンタジー)を持ち、さらにはファミコン移植版が注目されたという幸運も持ち合わせたがゆえにヒットしたと考えられます。もちろん、不親切と言えるほどのプレイヤーを突き放した難易度が、プレイヤーの攻略心をそそり、それがゲームに熱中する要因を生んだことも確かです。しかし、決してそれだけではなく、むしろそれ以外の様々な要因の方が大きいのではないでしょうか。「今のゲームにはない、不親切さに熱狂した」というのは、確かに一面では正しいのですが、しかしドルアーガというゲームの全体像を捉えているとは言い難いのです。その一面に過ぎない要素を拡大解釈して、「今のゲームは『ドルアーガ』のような不親切さがないからつまらないのだ」という短絡的な結論に陥ってしまうのは、決していいことではないと思うのです。

 この「東京トイボックス」という作品は、あくまでストーリーを読ませるマンガですから、「今のゲームがつまらない理由」を「不親切さ」という一点に単純化して強調した方が、ストーリーが盛り上がるでしょうし、ゲームをあまり知らない読者に対しても受けがいいでしょう。つまり、マンガのストーリーテリングの上で都合がよいわけです。これは、マンガ作品のあり方としては決して間違ってはいませんし、それで作品が盛り上がるなら大いに結構だと思います。

 しかし、それを読者が完全に鵜呑みにしてしまい、「今のゲームは不親切さがないからつまらない」という単純な結論に陥ってしまうのはまずいとも思うのです。特に、読者が昔のゲームを知るオールドゲーマーの場合、多かれ少なかれ昔のゲームの方が難易度が高く、歯ごたえがあったという印象を抱いているため、なおさらこのような単純な結論に陥ってしまいやすいのではないでしょうか。ゲームをよく知るゲーマーならば、このような単純な結論のみに感化されるのではなく、より慎重な態度で深い考察を行うべきだと思うのです。


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